石川九楊

人類史は言葉の歴史、文体の積畳である。意識の暗闇から言葉(語彙と文体)を引き上げ、その語彙と文体を積畳してきた歴史である。 言葉の世界に堕ちた人間は、語彙と文体をつくり、また壊しながら、際限なく言葉を、表現を窮めて行かねばならない。それなら、人間は意識の中にひそむ暗闇をどれだけ追いつめ、どれだけのことを言えるようになったのだろうか。 数字に裏付けがあるわけではないが、人間は、自ら言いたいこと、言うべきことの十分の一、否、百分の一、あるいはそれ以下しか言うことのできる力をもってはいない。今なお私たちは厖大な自ら自覚してはいない意識に踊らされて生きている。ほんとうに言いたいことへの豊かな語彙はなく、それどころか、ほんとうに言いたいことが奈辺にあるのか。どうすれば言いうるのかの手だて(文体)さえないではないか。 人類は終りであるどころか、始まったばかり。自ら抱いている過半の意識に暗いと言う、まだまだ未成熟で、三歳児段階を超えてはいないくらいに考えておいてそう狂いはないように思う。現に今、書き綴っている私のこの文とて同じだ、確かに見つけたというさわり=手応えはあっても、うまく言葉にならないもどかしさに満ちている。 言いたいことの過半が言えない。書き残したいことの大半に筆の及ばない、いわば三歳児程度で人間の歴史が終焉するはずがないではないか。 自然環境、生活環境を含めて流布される、地球や人類の終焉なるスローガンは、乏しい語彙と文体からする逃避、たんなる噂の流布以上のものではない。 そうでなくて、人類史は、これから始まるのである。